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ご挨拶

人の奥行きに、じっくりと寄り添うために

通所介護事業所「玄玄(げんげん)」は、2007年4月、広島市佐伯区五月が丘の地に誕生しました。
創業から18年──この間、ただの一度も“効率”や“決められた正解”を追い求めることはありませんでした。
私たちは常に、「目の前のその人に、どんな関わり方が本当に必要なのか」を問い続けてきました。

「玄玄」とは、“極めて奥深いこと”という意味の言葉です。
介護という営みの中で日々向き合うのは、人という存在の深さと、そこに宿る豊かさです。
だからこそ私たちは、その一人ひとりの奥行きを大切にしたケアを実践しています。

できることを増やす”のではなく、“できる方法を見つける”という姿勢

玄玄では、介護度やご病気の種類に関わらず、さまざまな方を積極的にお迎えしてきました。
重度の認知症のある方、他の事業所では難しいとされるようなケースにも、可能性を諦めず向き合ってきたのは、
「介護とはハンドメイドである」という確信があるからです。

小規模な事業所だからこそ実現できる、“手作りのケア”。
目の前のその人にとって「今、何が心地よいか」「どんな瞬間が自分らしいか」を見逃さない、
柔軟で応答的な介護を心がけています。

「プログラム」ではなく、「暮らし」を支えるという選択

玄玄には、よくある集団プログラムや訓練メニューはありません。
けれど、私たちのケアは決して受け身ではありません。
何気ない日常の中に生まれる、会話、まなざし、笑い、沈黙──それこそが人を支える力だと、私たちは考えています。

人生の後半を生きる方々にとって、「今日という一日をどう過ごせるか」は、何より大きなテーマです。
だからこそ私たちは、誰かの“プログラム”ではなく、その人自身の“暮らし”に寄り添う介護を選びました。

経験に裏打ちされた「看取りまでの支援」

これまで玄玄では、数多くのご利用者とご家族の「その時」を支えてまいりました。
“看取り”という言葉だけでは表しきれない、最期までの時間の尊さ。
その一つひとつに、私たちは誠実に向き合ってきました。
医療・介護・家族、それぞれの立場を越えて、「この人の人生を共に見届けたい」という思いで、日々のケアに取り組んでいます。

これからも、地域の方々とともに。
そして、「ここで過ごしたい」と願うすべての人に、静かで確かな安心を届け続けてまいります。

通所介護事業所 玄玄
代表 藤渕 安生

サービス概要

📌 基本情報

  • 事業所名:通所介護事業所 玄玄(げんげん)
  • 所在地:広島市南区東雲二丁目7番17号
  • 定員:18名
  • 営業日:月曜〜土曜(祝日・12/30〜1/4休業)
  • 営業時間:9:30〜16:40(送迎あり)
  • TEL:082-298-8111
  • FAX :082-298-8086
  • メール:info@gen-gen.com

🌿 玄玄の特徴

🧑‍🦯 個別対応の手づくりケア

一人ひとりの生活歴や性格、障がいなどに合わせた”オーダーメイドの関わり”を重視しています。

🧠 認知症ケアにも積極対応

認知症の方の混乱・不安に向き合い、環境や関係性からアプローチします。

🤝 家族の支えとなる存在に

ご本人だけでなく、ご家族の不安や負担にも丁寧に寄り添います。

🛌 看取り期までの支援実績

通いの場であっても「最期まで通える安心」を支える環境づくりを行っています。

🧰 プログラムより「暮らし」を大切に

型どおりの訓練やレクリエーションではなく、日々の生活に根ざしたケアを提供します。

🧑‍⚕️ 介護・看護体制

👥 職員体制

  • 介護福祉士
  • 看護師・准看護師
  • 社会福祉士

🚐 送迎エリア

  • 広島市南区・中区(一部)・東区(一部)・安芸区(一部)など

📷 施設の様子

  • 木をふんだんに使った「ただいま」と言いたくなる空間
  • 自然光が差し込む窓辺、落ち着ける静養室
  • 食事は、手作りでご提供しています

📞 ご相談・ご見学・体験利用 随時受付中

まずはお気軽にお問い合わせください。
「通所介護事業所玄玄で、こんなことできる?」というご相談からで大丈夫です。
どこに相談すればよいかわからない…という方もぜひ。

  • TEL:082-298-8111
  • FAX :082-298-8086
  • メール:info@gen-gen.com
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通所介護事業所玄玄

通所介護事業所玄玄

社一帯がパワースポットとなっております。

Japanese real underground CARE organiz

■朝の5分で、なにが変わるのか。そんなことを言い出すと「別に変わらないんじゃないか」とか「5分しかないならコーヒーでも飲んでいたい」と思う人もいるかもしれない。いや、それも正しい。でも、私たちの現場には、その5分で空間の気配が変わるという、説明できそうでできないことがある。はっきり言って、これについては、わからない。■たとえば、入口から席までの動線に、ある椅子がちょっとだけせり出していたとする。すると、そこを通る人が、身体をほんの少し傾ける。傾けるというか、たぶん「よける」だ。で、その動作が、次に来た人にも伝染する。誰もなにも悪くないのに、場がざわつく。そういうことが、ある。これを「身体のざわめき」みたいに言ってもいいかもしれない。朝の準備、その5分は、これを整える時間だ。■座席配置についても、ひとつある。あの人とあの人の間に、1席だけ空間があると、誰も怒らないし、何も起きない。むしろ、穏やかになる。でもその1席がなくなると、なにかが乱れる。これもまた、説明できそうでできない。人間関係というより「気配関係」の話で、位置と余白と視線の角度の問題。介護という営みは、配置の芸術でもあるんだと、最近思う。大げさじゃなくて。■あと、コップ。名前付きコップがずらりと並ぶとき、位置がずれていると、本人が混乱する。「これは誰の?」と、わたしたちはつい口にするが、それは自分への問いかけでもある。「これ、誰の?」って、人生そのものへの問いにも聞こえる。先日、「〇〇様」と書かれたコースターを見て、「これうちじゃないよね?」と混乱され、キッチンへ持って行こうとされた方がいた。とっさにコースターを一度お預かりする。その場にあったのは、コースターではなく、揺れている「自分の居場所」だったのかもしれない。だから、朝の5分でコップの位置と名前を合わせる。それだけで「自分の場所」があるという、当たり前のことが整う。当たり前は、誰かが整えてはじめて存在する。■テレビの音量問題も見逃せない。大きすぎると圧になるし、小さすぎると不安になる。何を行っているかわからないが、鳴っている。人との距離、そしてスピーカーとの距離、灼熱の高校野球の熱気、場の湿度みたいなものを感じながら、「ちょうどいい」を探す。つまりそれは、音ではなく、空気の音量を整えるということなのだろう。音と身体の関係は、PAよりも優秀な介護職員の方が真剣に向き合ってるんじゃないかとさえ思う。■そういえば先週の仕事帰り、久しぶりにOOIOOを聴いた。OTOがGENGO以前のリズムで、ただただ身体が反応する感じ。聴いていて、これはもう介護の現場に近いなと思った。説明できないけど、わかる。OOIOOを聴いて「これはケアだ」と思えるようになったら、介護の深みに足を突っ込んでいる証拠かもしれないw■そして結局、わたしたちは「わからないこと」を前提に仕事している。それは、相手の気持ちもそうだし、自分の気持ちもそうだし、場の気配もそう。介護は、わからなさを拒絶しない営みであるべきだと思う。だから、朝の5分でやっていることは、なにかを「正す」ことではない。ただ、そっと整えるだけだ。それによって、その日一日の「居心地」が、ふわっと変わる。その違いに気づく人は、案外すくない。でも、わかる人には、わかる。それで、いいのだ。藤渕安生#玄玄 #デイサービス玄玄 #通所介護 #デイサービス #広島市南区 #広島介護 #介護の現場から #配置の芸術 #朝のルーティン #空気を整える #介護職の日常 #ケアの本質 #ooioo #日常の中のケア #気配のデザイン #介護エッセイ ... See MoreSee Less
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■「問題行動」という言葉がずっと苦手だった。何かこう、うまく言えないのだけど、誰かの振る舞いを「問題」として分類し、ラベルを貼るというその行為自体が、なんだか非常に雑なように思えてならなかった。でも現場では、よく使われる言葉だ。ある日、スタッフがつぶやいた。「あの人、また怒ってた。便秘だと思うんだけどね」。■認知症の人が突然怒り出す。暴言を吐く。徘徊する。物を投げる。そういう出来事が「問題行動」と呼ばれる。そして多くのケアマネや相談員は、その行動を「どうやって抑えるか」「どうやって落ち着かせるか」という視点で捉えがちになる。けれども、ほんの少しだけ、角度を変えてみると、それは“身体の声”だったりする。たとえば、便秘。■腸が詰まっている。お腹が張っている。出ない。苦しい。でもその苦しさをうまく言葉にできない。だから怒る。混乱する。ソワソワする。怒鳴る。手が出る。もし自分がずっと便秘で、さらに言葉も出なくなっていたら、どうするか。———これはもう、怒るしかない。便秘はつまり、もっとも物理的な「不快」なのだ。認知症の「問題行動」の一番の原因は便秘だ、という言葉をどこかの古典で読んだ。なにか、とても納得してしまった。■その昔、ガンダムでアムロが叫んでいた。「まだだ、たかがメインカメラをやられただけだァ!!!」と。便秘も、たかが便秘、されど便秘である。メインカメラほど重要じゃないかもしれないが、むしろ現場では「便秘がすべての行動のレンズを曇らせる」ということがある。怒っている人がいて、暴れている人がいて、「ああ、また問題行動か…」と記録する。でも翌日、出たらケロッとしていた。あの怒りは、腸の叫びだったのかもしれない。■言葉が出ない人にとって、便秘は「語り」なのだ。便秘という行為、いや現象、いや沈黙。便秘を通してしか語れない何かがある。まるでサウンドシステムから鳴り出すダブのように、どこかをすり抜け、ズレて、気づかぬうちに深部に到達するもの。身体からのレゲエ。パターンの反復と、微細な変化。ポンという音があったとして、それがただのビートではなく、「今日は出なかった」という告白になっていく。■レジェンド的介護理論の中に、「身体の声に耳をすますことが介護の出発点である」という考え方がある。つまり、理屈や制度やスケジュールよりも、まずは相手の身体を観察し、そこに起きている変化に対して、身体ごと応答すること。わからないことを、わからないまま放置せず、いったん「気にする」という手続きを通すこと。その出発点として、「排便チェック」は案外、軽視できない。■もちろん、すべての怒りや混乱が便秘によるとは限らない。でも、認知症の人が「わけもなく怒っている」とき、「便秘では?」という仮説は、現場での一つの技として持っておいたほうがいい。なぜなら、それが本人の尊厳を守る可能性があるからだ。「この人は認知症だから怒っている」のではなく、「この人は便秘で怒っているかもしれない」。そのズレが、ケアを変える。実際、排便記録を丁寧に追いかけていくと、暴言や徘徊と“便の出ない日”がピタリと重なっていた、なんてことはよくある話だ。■で、どうするか。水分? 食物繊維? それとも薬? 対応策はたくさんあるけれど、いちばん重要なのは「朝食後にトイレに座る」という習慣をつくることだと思う。毎日決まった時間に便意を意識することで、身体が“出すリズム”を思い出す。便を見ることは恥ずかしいことでも、不潔なことでもなく、介護という営みの中で「ことばを持たない人と対話する手段」になる。うんこはメッセージなのだ。そう考えると、ちょっとすごい。■問題行動を「押さえ込む」のでなく、「理解しようとする」こと。その出発点として、身体からの信号を見逃さないこと。そして「便秘」という極めて現実的で物理的な問題を、私たちはもっと大事にしなければいけないのではないかと思う。介護とは、そういうふうに「出る」「出ない」に付き合っていく仕事でもある。つまり、うんこの話である。藤渕安生#玄玄 #デイサービス玄玄 #通所介護 #デイサービス #広島市南区 #広島介護 #認知症ケア #便秘対策 #排泄ケア #介護の本質 #問題行動ではなくSOS #朝の排便習慣 #身体の声に耳をすます #うんこはメッセージ ... See MoreSee Less
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■ライブなんて久しく行ってないが、かつて、「コール&レスポンス」というものがあった。現場で、マイクを持ったMCが叫ぶと、オーディエンスが叫び返す。あのリズム。あの呼応。あるときふと、「介護」の現場にも、似たような構造があるのではないかと思った。いや、厳密には全然違うかもしれない。ただ、誰かの「声」に対して、誰かが「応答する」という、その一往復のやり取りの大切さ。そこに、トイレに行きたいというひとことも、含まれる気がしたのだ。■「排泄最優先の原則」。これは、介護現場でよく語られる理念である。が、実際には、この「原則」が守られていない瞬間に出会うことも多い。「今ちょっと忙しいから後で」「さっき行ったばかりでしょう」「今はお風呂の時間なので」。あらゆる「後で」が、目の前の「今、行きたい」という人の声を飲み込んでしまう。■人は、トイレを我慢することで、身体的にも心理的にもストレスを溜める。玄玄では、排泄のパターンが生活のリズムそのものと深く関わっている。トイレに行く時間をコントロールされることは、つまり生活を支配されることに等しい。あの呼応が失われた世界だ。「Say yeah!!!!!!!!!!!!」に「……」と沈黙が返ってくるような、そんな風景である。■一方で、ケアする側の都合もわかる。タイムスケジュールがある。他の利用者の入浴介助中だったり、送迎が迫っていたり、職員数がギリギリなときもある。けれど、だからこそ「排泄最優先」の原則は、制度やマニュアルを超えた「思想」なのだと思う。つまり、「行きたい」と言った人の言葉を最優先に扱う覚悟。それは、目の前の人を「生活者」として扱うという、介護の根っこにある視点である。■この視点は、実はサブカル的でもある。言葉にならない「気配」や「身体感覚」に価値を置く。パターン化された大文字のシステムではなく、小さくてローカルな声に耳を傾ける。路上で遊びながらふと始まる音楽、即興でつむがれる音の粒。そういう感覚が、実はトイレの話とも繋がっていると考えるのは、少し変だろうか。。変だろうな。■以前に、ある利用者さんが言った。「今、トイレ行っておこうかと思って」。この「おこうかと思って」という言葉に宿る、微細な揺れ。強い欲求ではないかもしれない。でも、尊重されるべき揺れだ。その一瞬を逃さず、「はい、行きましょう」と応えること。それがコール&レスポンスであり、私が言うところの生活のグルーヴだ。■そういう応答ができる職場であれば、「働きたい」と思う人も自然と集まる。トイレに行きたいときに行けること。それだけのことが、実はとても難しい。でも、それだけのことを大切にできる介護は、きっと、ほかの場面でもやさしい。食事も、入浴も、会話も、みんな「今」に反応して組み立てられていく。■「排泄を後回しにしない」ことは、単なるケアの工夫ではない。それは、「今、ここにいる人」と呼吸を合わせること。何が起こるかわからぬ即興的なケアであり、相手が居るという応答的な生活である。その営みのなかに、介護の魅力があると、私は思っている。藤渕安生#玄玄 #デイサービス玄玄 #通所介護 #デイサービス #広島市南区 #広島介護 #排泄ケア #介護の現場から #介護の仕事 #介護観 #サブカル介護 #ケアの哲学 #共感ケア #即興的ケア #利用者ファースト ... See MoreSee Less
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■中学・高校の同窓会に参加した。玄玄の移転改装工事をしているときに、たまたま目の前の道を友人が通りかかり、そこで偶然誘われた。参加者には、32年ぶりに会う同窓生もたくさんいたが、正直期待はしていなかった。なにせ、僕には友達がいない、もしくは少ない、と思い込んでいたからだ。中学・高校時代の記憶といえば、気まずい授業と、自意識の肥大化、一言も口を利いたことのない同級生がほとんど、そして、お前はもう少しなんとかならなかったのかという後悔だけだった。■けれど、行ってみたらまったく違っていた。「やさしくなった」「話し方が変わった」「あのとき、ヤバかった」「話しかけづらかった」と、沢山の人から話しかけられ、私自身が忘れている恥ずかしい過去をたくさん言われた。言われたが、怒られているわけではなく、むしろ相手は笑っていた。当時、学生時代に話したことのない同級生とも、なぜだか自然に話していた。そして、その中のひとり、高校3年生のときに同じクラスだった同級生から、言葉をかけられた。「みんな心配しとったよ〜」。■驚いた。心配されていたという事実が、ずっとあとになってやってくる。時間差の優しさ。これはもう、ケアだ。■人の「心配する」という行為は、案外、見落とされがちだ。声をかけたり、体を支えたり、薬を渡したり、そういう目に見えることばかりが介護だと思われる。でも、そうじゃない。目の前にいなくても、関係性は生きている。気にかける、という営み。それは“手続き”ではなく、“現象”なのだ。■玄玄ではよくある。ある利用者さんが来ないと、「今日は◯◯さん、来んのん?」と他の利用者さんが言う。それは情報としてではなく、気持ちとして発せられている。そこにスタッフが「う〜ん、なんか調子が悪いみたいですよ〜」と答えると、「そうなんじゃあ」と返ってくる。それでおしまい。でも、それが大事なのだ。そこに、思いやりと、関係性と、気配りのレイヤーが幾重にも存在している。同窓会のあの時間と、驚くほど似ていた。■まさにこれは、ダブだ。リディム(基盤)はもう鳴っているのに、何かが抜けていて、その“抜け”が音の余白を生み、リバーブとエコーが立ち上がる。その空間に残っていたのは、「心配」というエフェクトだった。音楽は現場で響き直される。関係性もまた、過去の録音ではなく、いまこの瞬間の共鳴によって変わる。■つまり僕は、同窓会のあの空間で、かつての「同級生」として、他者に“記憶”されていたのだ。自分よりも自分を知ってくれていた人たち。その人たちが、僕という人間の“あの恥じらいの記憶”をちゃんと持っていた。ちょっと笑える。僕の黒歴史が、誰かの“関係性の記憶”として、ちゃんと保存されていたのだから。しかも、怒りではなく、心配とともに。■こういうことを思い出すたびに、介護という仕事の本質が「関係性の継続」にあると気づかされる。ケアとは「いま何をするか」ではなく、「これまでどうだったか」もふまえて、「これからどうなっていくか」を含んだ、時間軸上の実践なのだ。昔の僕を笑って、でもちゃんと心配してくれた人たちがいた。その構造は、まさに介護現場で日々行われていることと同じだ。■だから、過去を赦すことは、未来をケアすることでもあるのだと思う。介護の現場で、利用者さんの過去を知ること。恥ずかしいことも、つらかったことも、まるごと一緒にいること。それは単なる業務ではなく、「心配されていた」という事実を届けることでもある。■友達とは良いものだ、と思った。それは単に仲が良いとか、一緒に遊ぶとか、そんな単純な構図ではなく、「関係性が死んでいなかった」という事実への驚きでもある。ケアもまた、そうした驚きから始まるのかもしれない。気づいたときには、すでに誰かが、あなたを“心配していた”のだ。藤渕安生#玄玄 #デイサービス玄玄 #通所介護 #デイサービス #広島市南区 #広島介護 #介護の本質 #心配する力 #介護職とつながり #介護現場のリアル #介護と音楽 #介護の哲学 #介護職あるある #人と人のつながり ... See MoreSee Less
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アクセス
住  所 :広島市南区東雲2丁目7番17号